ペナン島在住時に通っていた教会Covenant Grace Church Penang(CGC)で、2019年から2020年にかけて「私たちの魂は大丈夫か?」というテーマについて語らせて頂きました。
先日、全6回のメッセージのうち1回目を紹介しました。最初から読みたい方はこちらをどうぞ。
今回は2回目を紹介します。罪とその赦し、そして私たちの「回心」に関するものです。
街がクリスマスのオーナメントやライトアップで満たされるこの時期、イエス・キリストが何のために私たちの世に生まれ、ご生涯を歩まれ、死んでいかれたかを考える一助となれば幸いです。
なお、このメッセージの後半に出てくるConversionという英語のキリスト教用語は日本語でいう(信仰の対象の変化としての)「改宗」と(より深く本質的な意味での)「回心」という二つの意味を含みます。このため、日本語版の読者を意識して一部直訳していない箇所があります。ご了承下さい。
第2回メッセージ:2019年12月8日CGC主日礼拝
メッセージのための聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~20節、詩編51編、ローマの信徒への手紙3章21~26節
はじめに
2週間前、私たちは19世紀のイギリスにおいて説教者として大きな働きをしたJ.C.ライルという人の著作に基づき、自己吟味という重要なテーマについて検討を始めました。ライルが取り上げたのは、使徒パウロがバルナバと共に設立に関わった教会を再訪する計画を立てる中で発したこの質問でした:「私たちの魂は大丈夫か?」
私たちは信仰に堅く立ち続けているだろうか?彼らの徳は高め続けているであろうか?彼らの信仰は成長しているだろうか、それとも足踏み状態になっているだろうか?信仰を与えられる前の状態に逆戻りしていないだろうか?
私たちは食べ物を口に入れるとき、よく噛み味わった上で呑み込みます。同じように、「私たちの魂は大丈夫か?」という広範囲にわたる重大な問いを考えるときは、この問いを小さく切り分けることがとても有益です。ありがたいことに、ライルはこの問いを10個の問いに分けてくれました。
2週間前、私たちは最初の3つの問いをご一緒に考えました。おさらいしましょう:
- 私たちは自らの魂のことについて思いを巡らせることがあるだろうか?人生には必ず終わりがあり、その終わりがいつ来るかを知ることができないことを弁えているだろうか?
- 私たちは自らの魂の問題について何らかの行動を起こしているだろうか?神様から何かを教えられたとき、その内容を行動に反映させているだろうか?
- 私たちは『カタチだけの宗教』で自らを満足させようとしていないだろうか?目に見える形式や慣習にこだわるあまり、信仰の歩みそのものに心を注ぐことをないがしろにしていないだろうか?
今日はさらに重大な事柄に触れます。罪の赦しと私たちの回心についてです。2週間前、魂の問題の扱い方について「悪いニュース」を聴いて落胆した方もおられることでしょう。今日はさらなる「悪いニュース」をご一緒に聴くことになります。しかしこの「悪いニュース」こそ、イエス・キリストがもたらして下さった「グッドニュース」がいかに大きいかを理解し、味わい、これに感謝する上で不可欠なのです。
それでは、ライルの第4問にまいりましょう。
第4問
第4問は「私たちは自らの罪の赦しを受け取っているか?」という問いです。
ある程度まとまった期間にわたって教会の礼拝に出席し、御言葉の解き明かしを聴いておられる方で、自分自身に何かしら問題があることを否定される方は少ないのではないでしょうか。自分が「完璧ではない」ことを認める方は多くおられるのではないでしょうか。中には「自分は道徳的にそうひどくない」と思われる方もおられるかもしれませんが。
しかし罪の問題について考えるとき、私たちは神が自らお創りになった人間に対して何を求めておられるかを最初に考えるべきでしょう。聖書の冒頭に戻って、神がアダムに与えられた戒めを改めて読んでみましょう:
「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。
『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」(創世記2章15~16節)
善悪の知識の木からは決して食べてはならない-これは非常に単純明快な命令です。にもかかわらず、創世記の次の章でアダムが誘惑に陥り、この命令に違反してしまったことは私たちのよく知るところです。そして私たちは全て、イエス・キリストを通じてこのアダムと霊的につながっているのです。
結局のところ、私たちは自らが罪人であることを認めるほかないのです。神の御前に罪のない人は誰一人としていないのです。有罪である以上、私たちは罪を赦して頂くか永遠に地獄に墜ちるかどちらかなのです。第三の選択肢は存在しないのです。
キリスト教信仰の素晴らしさは、私たちが最も必要としている罪の赦しを与えてくれることにあります。その赦しは完全・無償・完璧にして永遠のものなのです。キリスト教会において生み出された最も有名な信条といってもよい使徒信条には「我は罪の赦し…を信ず」とあります。この赦しは永遠なる神の子イエス・キリストが買って下さったものです。キリストは私たちの救い主となられるために地上に降られ、地上の生涯を生き、死んでよみがえられることによって、罪の赦しを買い与えて下さったのです。キリストはご自身の尊い血潮を流すことによって、本来私たちが受けるべき十字架の苦しみを苦しみ抜くことによって、罪の代償を完全に支払い、罪の赦しを買い与えて下さったのです。
しかし、ここで大切なことに触れなければなりません。この罪の赦しは大いなる、完全で栄光に満ちたものですが、礼拝堂に座って聖書の解き明かしを聴いているだけで自動的に自分自身のものになるのではありません。
罪の赦しは、私たち一人一人がおのおの、自分自身のために受け取らなければならないのです。私たち一人一人が信仰においてつかみ取り、自分のものにしなければならないのです。そうでなければ、キリストの死は私たちにとって何の益にもならないのです。
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることができないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネによる福音書3章36節)
この言葉を注意深く読んでみましょう。永遠の命にあずかるか神の御怒りに打ち倒されるかの分かれ道は、イエス・キリストを自らの救い主と信じるか否かの一点に尽きるのです。それは救いを切望し、謙虚にかつ心から主を信頼する魂の在り方にほかならないのです。キリストは私たちを救うことがおできになりますし、そのことを願っておられますが、それが実現するためには私たちがキリストのもとに来て救い主と信じることが不可欠なのです。真にキリストを信じる人は一人残らず罪を赦されて義人として扱われますが、そうでない人には罪の赦しは与えられないのです。
ここまで聴いて「何を小学生向けの話をしているのだ」とお感じになる方もおられるかもしれません。しかし、この基本的かつ最も重要な事柄を理解していないが故に永遠に失われる危険を抱えている人が実に多いのです。
イエス・キリスト以外に罪の赦しはあり得ないことをアタマで理解している人なら多いかもしれません。使徒信条は父・御子・聖霊なる三位一体の神がどのような方であるか、そしてキリスト者の歩みがどのようなものであるかを簡潔に、そして見事にまとめています。私はこれまで日本国内で20か所以上の教会の礼拝に出席してきましたが、この使徒信条を声に出して告白しない教会には行った覚えがありません。
<使徒信条>
我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず
我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず 主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父の右に座し給へり かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給はん
我は聖霊を信ず 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永久(とこしへ)の生命(いのち)を信ず アーメン
しかし、この信条の言葉を機械的に、保険契約の条文であるかのように棒読みしていることがあまりに多いように感じるのです。私たちはこの言葉を自分自身の問題として捉えているでしょうか?イエス・キリストが「わたしの」主人、「わたしの」救い主、「わたしの」贖い主、「わたしの」祭司、そして「わたしの」弁護人であられると告白しているでしょうか?J.C.ライルが書き記したところによると、宗教改革者マルティン・ルターは、多くの人がイエス・キリストについて語るとき「わたしの」という単数一人称を使えないために失われたままになっていると指摘したそうです。
それでは、私たちは何故イエス・キリストを「わたしの」救い主とお呼びすることができないでいるのでしょうか?いささか勇気の要ることですが、魂の生死にかかわる事柄ですので、自分なりに根本原因を探ってみたいと思います:
(1) 考えられる第一の理由は、私たちがそもそも自分のことを罪人だと思っていないことです。私たちは心のどこかで「わたしは真面目な人間だ」「私は人を殺したこともないし、傷つけたこともないし、妻・夫・彼氏・彼女を裏切ったこともないし、学校や仕事をサボったこともない」と胸を張っているかもしれません。しかし、この御言葉に自分を照らしてみるとどうでしょうか?
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤの信徒への手紙5章19~21節)
それでもなお「私は誰も殺したことがない」と言い張れるなら、ハイデルベルク信仰問答・問106を読んで自分がどう評価されるかみてみましょう(吉田隆の訳による):
問106:しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
答:神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。
(2) 第二の理由として、私たちが罪の問題を重大な事柄として捉えていないことが考えられます。
たとえ主の日ごとに教会で御言葉の解き明かしを聴いていても、心の中ではその内容を教会の玄関に置いていき、御言葉を聴く前と同じ生活を続けることは十分可能です。私が米国南東部の田舎町に住んでいたとき、中学時代に最も仲の良かったクラスメイトはこのように語っていました:「日曜の朝礼拝堂の最前列に座っている男たちに限って、次の日には奥さんを裏切っていたものさ」。罪の問題を生死にかかわる重大な問題として捉えないと、このようなことにもなるのです。
(3) それでは、なぜ私たちは罪の問題を重大なこととして扱わないのでしょうか?
私たちは、自分が死んだ後のことを考えるには「いま」を生きることに夢中に過ぎるのかもしれません。しかし、イエス・キリストはこのようにはっきり語っておられます:
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(マタイによる福音書24章40~44節)
実際、私たちは誰一人として自分がいつ死ぬかわからないのです。そして、死の後に私たちを待っているのはこのような恐ろしい裁きです:
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えてくることもできない。』」(ルカによる福音書16章19~26節)
(4) しかし、これだけ恐ろしい結末が待っているにもかかわらず、私たちは何故死後のことを考えようとしないのでしょうか?信仰のあるなしにかかわらず、死後どうなるかを自分で決めることができないことを心の奥底でわかっているからでしょうか?
「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録20章11~15節)
罪を悔い改めようとしないことがもたらす結果について聴き、恐れを抱いたならば、私たちは罪の問題と自分自身の問題として本気で向き合うべきではありませんか?
古代イスラエルの偉大な国王ダビデはバト・シェバと姦通という重大な罪を犯し、彼女の夫であるウリヤを間接的に殺したことで預言者ナタンから「その男はあなただ!」と指摘されます。ダビデは権力者としてナタンをその場で手討ちにすることもできましたが、そうはしませんでした。彼はその場で直ちに告白したのです:「わたしは主に罪を犯した」と。そしてダビデは、罪の悔い改めと神からの赦しと憐れみについて記した詩編51編の珠玉の言葉を残してくれたのです。
皆さん、罪の問題とその赦しを、自分自身の問題として本気で受け止めましょう。
第5問
次に、第5問にまいりましょう。「私たちはConversion(回心)について、自らの体験として少しでも知っているだろうか?」という問いです。
英和辞典でconversionという単語を引くと日本語訳のひとつとして「改宗」と記されているのではないでしょうか。
それでは「改宗」とは何か?それは洗礼を受けてキリスト者、すなわち教会員となることだ、と定義する方もおられるかもしれません。私自身、以前はそのように単純に考えていました。確かに、この定義は信仰者でない人にとっても分かりやすいと言えるでしょう。
しかしCGCの礼拝に出席するようになりconversionという用語がかなり異なった意味合いで用いられるのを聞いてから、自分は「キリスト者となる」ことを自動車の運転免許を取得することと同じように考えていたのではないか?と思うようになりました。他のクルマとぶつかったり他者にけがをさせたりしさえしなければ自分の好きなように運転してよい、とどこかで自己欺瞞に陥っていなかっただろうか?
しかし聖書はconversionがより深く、より根本的なことであることを示しています。何か所か開いてみましょう。
「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』
イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』
ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」(ヨハネによる福音書 3章1~4節)
キリストはここでニコデモに対し、神の国を見るには霊と魂において生まれ変わらなければならないことを教えておられますが、ニコデモには何のことかさっぱりわからないのです。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、『霊』は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマの信徒への手紙 8章9~11節)
この言葉から、使徒パウロがconversionを「自分の内にある罪が死に、神の霊が私たちに対して注がれて私たちの内に住まわれること」、一般的な日本語でいえば「回心」という意味で捉えていることがわかります。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(コリントの信徒への手紙二 5章17~19節)
これらの御言葉は、conversionが神と和解させて頂きキリストと共に生きることを意味することを私たちに明確に教えています。
ハイデルベルク信仰問答・問5が明確に示す通り、私たちは神を憎み、そのご命令に逆らう性質を生まれながらにして持っています。その性質の故に、私たちはアダムとエヴァと同じように(創世記3章8節)罪を犯したときに神から隠れようとするのです。Conversionすなわち「回心」とは、そのような性質自体が根本から変えられることを意味するのです。
根本から変えられた人はどのようになるか。ヨハネの手紙一・2章3節から6節に明記されています:
「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(ヨハネの手紙一・2章3~6節)
これは非常に厳しい御言葉であります。キリストのように生き、そのご命令を守らねば、私たちは嘘つきであり「回心」を経ていないというのです!
ヨハネはこうも記しています:「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」と。すなわち、私たちがキリストと共に生きていることの証拠は「私はクリスチャンです」と口先で言うことではなく、私たちが神のご命令を守っていることにあるというのです。
ご存じの通り、裁判においては証拠が全てです。私たちが終わりの日に創造主の法廷に立たされた際、私たちが新たにされた証拠を裁判官である創造主が確認できない場合は、神は私たちを永遠の地獄の苦しみという刑に処せられるのです。何と恐ろしいことでしょうか!
「回心」のことを考えるとき、私たちは無意識のうちに信仰があたかも医学的治療であるかのように思っているのではないか、と思うことがあります。病気が治ったら、医者に定期的に通うのをやめるのは何ら不思議なことではありません。私はこれまで何人もの若い人が洗礼を受けて教会員とされるのを見てきましたが、就職・結婚・出世といったことを機に教会から離れてしまうことが実に多いのです。教会に対してフラストレーションを覚えたり、牧師・長老その他責任ある立場にある人の言動に同意できずに離れてしまう人も少なくありません。教会は確かに魂を病んだ人のための「病院」としての側面を持っていますが、「キリスト教は『卒業』した」と言っている人は消費者根性を露呈しているに過ぎないのです。製品であれサービスであれ、商品に用がなくなったら処分または解約するのが普通でしょう。しかし、それが神様を礼拝する態度でしょうか?
信仰を医療に例えましたので、一言お断りを申します。精神疾患など人の心と魂が医学的に病む現実を、信仰を盾に否定してはならないと思います。学校や職場でのいわゆる「いじめ」が人の心と魂をいかに蝕むかを、私自身体験を通して知っています。聖書自体、人が精神に異常をきたすケースを記しています。列王記上19章を開くと、バアルの預言者を処刑した預言者エリヤが女王イゼベルによって命を狙われたとき、自らの死を願った場面が記されています。
そして私自身、信仰において消費者根性を持っていたことを認めざるを得ません。洗礼を受けたその年、私は大学3年生から4年生に上がるタイミングで留年し、精神的に参っていました。教会での交わり、中でも同じように人生で挫折を味わった兄弟たちとの出会いは私の孤独感を確かに癒してくれました。しかし、信仰者としての歩む中で、教会に行くのも家に帰るのもひとりぼっちという孤独な時間が少なくないことも、私はやがて体験的に知るようになりました。キリスト者として歩むということは神及びキリストと一対一で向き合い、私に対して語られる御言葉を聴き信じ従うことであることを、私は学ばねばなりませんでした。天に召されるその日まで、この学びは終わることはないのです。
ここで「回心」ということと深く関わると思われる、もう一つの御言葉を開きたいと思います:
「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』
それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』」(ルカによる福音書17章11~19節)
『あなたの信仰があなたを救った』。サマリア人が「回心」した事実を、何と救い主ご自身が認めて下さったのです。
私たちはこのサマリア人のような態度で神様と向き合っているでしょうか?それとも、帰って来なかった9人のような態度で終わっているでしょうか?
本当に新たにされたか、「回心」の実を結んでいるか、私たちは神様に吟味して頂かなければなりません。
吟味の結果、私自身がそうであったように、自分が実は名ばかりのクリスチャンにすぎないことに気付かされるかもしれません。信仰者として何年も生活していても、基本的なことを誤解していたり信仰そのものに欠陥が見つかるかもしれません。
そうであるならば、その現実と向き合おうではありませんか。正直に認めようではありませんか。ニコデモは「回心」の意味を理解していなかったがためにイエス・キリストから叱られましたが、その後ファリサイ派の人々に対してイエス様を弁護し(ヨハネ7章50節)、十字架で死なれたキリストに没薬と沈香をささげた(ヨハネ19章39節)人として記録されています。
イエス様は正しい人をではなく、あなたと私のような罪人を救うためにこの世に来て下さいました(ルカによる福音書2章15~17節)。主は常に神と共に生きた人ではなく、失われた人を探すために来て下さいました(ルカ19章10節)。私たちを「回心」させるのは私たちの「よいことをする能力」ではなく、このお方なのです。
主の呼びかけを聴き、病気を癒されたサマリア人のように応答し、生涯の終わりに至るまで主に従う者とされていきましょう。
天の父よ、私たちはどうしようもない、救いを必要とする、しかも自分の力だけで罪を犯すことをやめられない惨めな罪人にすぎません。あなたの憐れみと慈しみによらなければ、私たちは一日たりとも生きることができません。私たちが如何にあなたを必要としているか、告白する謙虚さをお与え下さい。あなたを抽象的な概念としてではなく、私たち自身の救い主として見上げることができるよう、魂の目を開いて下さい。私たちを罪の性質からあなたの聖なる性質へと作り変えて下さる、あなたの御業を信頼することを教えて下さい。キリストの聖名によって、アーメン。