礼拝メッセージ/私たちの魂は大丈夫か?(その1)

前書き

原文(英語)はこちらをクリック

2019年11月から2020年の11月にかけて、私は当時通っていたマレーシア・ペナン島の改革派教会Covenant Grace Church Penang(CGC)の長老から主日礼拝で奨励をするよう依頼を受けました。

私にとって初めての体験でしたので、メッセージを準備するための参考書として英国の説教者J.C.ライル(1816-1900)が1878年に出版したPractical Religion(『実践的信仰』)という書物を貸してくれました。しばらく祈った後、私はこの書物に収められている最初のメッセージSelf-Inquiry(『自己吟味』)をベースにメッセージを準備することにしました。

6回のメッセージを語り終えて一か月弱経った2020年12月、私はペナンを引き揚げて赴任前に住んでいた横浜に戻りました。その一年後、5年以上通ったCGCで聴いてきた説教のメモを整理しているときに「ブログで全世界と共有できないか?クラウドストレージに匿ったままにしておく必要はない」という考えが浮かびました。

そこでCGCの長老の同意のもと、第1回のメッセージの日本語訳をここに公開いたします。礼拝において語らせて頂いたメッセージに、更に若干の編集を加えました。

公開にあたって、いくつか「おことわり」があります:

  • この一連のメッセージはJ.C.ライルの著作を基に、現代の聴衆に合わせて私がアレンジを加えたものです。ライルが用いている表現は私の責任において日本語に訳しており、訳文に関する二次著作権を留保いたします。
  • もっとも、訳し方に不正確な点があるかもしれません。お気づきの点がございましたら、以下宛てにご一報頂ければ幸いです。ご感想もお待ちしております! 当ブログのメールアドレス:soloyetneveralone.blog@gmail.com
  • 一連のメッセージが語られた礼拝の録音は致しておりません。事後的に録音することも考えましたが、礼拝の中で語られた言葉にはふさわしくないと判断しました。何卒ご了承下さい。
  • 聖書は特に断りのない限り日本聖書協会「新共同訳」を引用します。英語の聖書を引用する場合はCGCで用いているNew King James Version(新欽定訳)を引用します。

これらのメッセージが、皆様の心と魂の糧となれば幸いです。

第1回メッセージ:2019年11月24日CGC主日礼拝

メッセージのための聖書箇所:詩編139編、使徒言行録15章22節~41節

はじめに

これから皆さんとご一緒に聴こうとしている内容は、19世紀のイギリス国教会において説教者として大きな働きをしたJ.C.ライルという人の著作に基づくものです。彼の文章は当時のイギリスに生きていた信仰者に向けて書かれていますので、私が手を加えています。彼が語ったメッセージを、21世紀のアジアに生きる私たちに向けても語られた言葉として受け取り、心に蓄えることができれば幸いです。

先程、使徒言行録15章からお読みしました。この箇所には、使徒パウロが第1回伝道旅行から戻った後にバルナバに対して行った一つの提案が記されています。その提案とは、主が彼らを用いて設立された教会を再訪し、そこに集う兄弟たちがどのようにしているか見てこよう、というものでした。彼らは信仰に堅く立ち続けているだろうか?彼らの徳は高め続けているであろうか?彼らの信仰は成長しているだろうか、それとも足踏み状態になっているだろうか?信仰を与えられる前の状態に逆戻りしていないだろうか?これらのことを確かめよう、という提案でした。

設立に携わった教会を再訪しよう、というパウロの提案は的確にして有益なものでした。これからその内容にご一緒に聴き、自らの日々の信仰生活にどのように適用すべきかを共に考えていきたいと思います。自らの在り方を吟味し、神様と私たちの関係がいかなる状態にあるかを確かめていきたいと思います。私たちの魂が「どのようになっているか」見ていきたいと思います。

三か月に一度の聖餐に与る前に、私たちは必ず詩編歌集の後ろにある式文を共に読みます。その式文は、自らの信仰と生活とを真剣に吟味するよう私たちに呼びかけています。先ほどお読みした詩編139編にもあるように、神様は私たちの全てを知り抜いておられます。ですから、私たちは聖餐式のときのみならず、日々自らの在り方を吟味する必要があります。

自らを吟味するにあたって、私たちはこれまでになく霊的に恵まれていることを主に感謝しなければなりません。何世紀も前にイギリスその他世界各地から宣教師たちがこの地に遣わされて以来、アジアの隅々にまで福音が宣べ伝えられています。そして今日、神様はインターネットという驚くべき通信技術を用いて、私たちが聖書の学び・デヴォーションガイド・教理に関する書籍や記事・トラクトその他の様々な賜物を簡単に入手して用いることができるようにして下さっています。皆さんの中にも、リゴニア・ミニストリーズ、ゴスペル・コアリション、カナダ改革派神学校、フォーカス・オン・ザ・ファミリーなどのキリスト教諸団体が提供している教材や資料をウェブで入手して利用し、大いに恵みに与っている方がおられることでしょう。しかも無料で。

しかし、私たちはここで立ち止まって考える必要があると思うのです。私たちはこれらの賜物を利用することで、少しでも成長しているだろうか?私たちの魂は大丈夫だろうか?

何故このような自己吟味が必要なのでしょうか?私たちはかつてない霊的な恵みに満ちた時代に生きていると同時に、かつてない霊的な危険にあふれた時代に生きています。私たちが生きているこの世界は、口先だけで信仰を告白する自称クリスチャンであふれています。クリスチャンと名乗る者の中には洗礼は受けていても本物の回心を経ていない、心と魂が作り変えられていない、礼拝に継続的に出席しない、自らの生活の中でキリストを告白することのない者が実に多いのです。

マタイによる福音書13章及びルカによる福音書8章に「種をまく人のたとえ」が記されていますが、その内容が現実に起きていることを私たちは知っているのではないでしょうか。神の御言葉がせっかく蒔かれたにもかかわらず、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけで土の少ない土地に落ち、ある種は茨に塞がれて実を結ぶことなく終わっている現実を、私たちはしばしば目の当たりにしているのではないでしょうか。

「神を信じている」と自称する人の中には、実は絶えず新しいものを追いかけているだけという人が実に多くいるように見受けられます。そのような人はただ単に新しい刺激を求めているだけで、キリストに従うことがどういうことなのかほとんど考えたことがないように見えます。

具体的にはどういうことでしょうか。彼らは御言葉の説教を聴くときも、心の内ではただ単に大勢の人の中に座って耳に心地良い話を聞きたいだけということが多いのです。私自身、主の日の公同礼拝と称しながらコンサート会場と呼ぶ方がよりふさわしい教会に出席したことが幾度もあります。会衆全員が声を合わせて讃美歌を歌うことよりも、セレブ歌手気取りの人が熱唱する、そして多くの場合会衆にとって歌いにくいゴスペルソングのほうに力が入っているように見受けられることさえあります。

そして最も悲しむべきことに、このような刺激を受けることに執着するあまり、刺激を追い求めなければ信仰が薄いかのように勘違いしている「根無し草」のような信仰者が数え切れないほど存在するのです。彼らは知らず知らずのうちに、ヒステリックでセンセーショナルかつ感傷的な「キリスト教もどき」を身に着けるのです。キリストが生きておられた時代から今に至るまで信仰が受け継がれてきたのは教会の歴史の中で形成されてきた信条・信仰問答・信仰告白に代表される「正統な信仰の道筋(Old Paths)」 に負うところが多いのですが、このような信仰者は幾世紀もの歴史によって真価が証明された信仰の宝物を馬鹿にすることが多いのです。古代アテネの人々がそうであったように、彼らはただ単に新しいものを求めて走り回っているにすぎないのです。

平穏な心を持った、高慢でも自信過剰でもなく自慢をせず、キリストと同じ性質を身に着けることを目指して日々努力を重ねることに満足し、人にものを教えることよりも謙遜に学ぶことに喜びを見出し、日々の生活の中で静かにかつ地道にキリストの働きにコミットしている若き信徒を見つけることは至難の業といってよいでしょう。

大声で騒ぐ人、出しゃばる人、信仰の先達を論破し否定することに躍起な人、自らの知性と知恵に対する傲慢なまでの自信に満ちた人。そのような生き方により自らの根っこの無さ、心と魂の事柄に対する無知ぶりを露呈している人があまりにも多いのです。テモテへの手紙二・3章16節にある通り、聖書は本来「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」ために与えられている書物ですが、彼らのいう「古い考え」に対する疑問をぶつけることには熱心でも、このような信仰の訓練を拒む人があまりに多いのです。そのような人は、エフェソの信徒への手紙4章14節にあるように「風のように変わりやすい教えにもてあそばれたり、引き回されたり」し、その結果偏狭な考えと偽善に満ちたセクトに入ったり、理性や道理の裏付けのないでっち上げの異端にはまったりしない方が奇跡でしょう。

このような危機的な時代に在って、私たちは自らを真剣に吟味しなければなりません。「私たちの魂は大丈夫か?」この問いを避けて通るわけにはいかないのです。

これは重大かつ根本的な問いでありますので、複数の質問に分割して取り組むことが有益と思われます。J.C.ライルはその著書の中でこの問いを10問の質問に分けてくれました。今回は最初の3問について、皆さんとご一緒に考えていきたいと思います。ご一緒に、しばらく静かにかつ深く自らを吟味してまいりましょう。私自身、このような吟味を必要とするひとりの罪人にすぎません。耳に痛いことを申し上げることがあるかもしれませんが、どうかご辛抱下さい。最も厳しい真実を語る人こそ最良の友であることを、皆さんもよくお分かりのことと思います。

第1問

それでは第1問から入りましょう。「私たちは自らの魂のことについて思いを巡らせることがあるだろうか?」という問いです。

ここペナン島に暮らす人々を見ていると-これは私の出身国日本についても言えることですが-この問いに満足に答えることのできる人は少ないのではないかと危惧します。マレーシア政府がイスラム教以外の宗教に対して課している伝道上の様々な制約の重みを日々感じることはあっても、日々の考えの中で「自分自身の魂の問題」についてまともに考えたことのない人が非常に多いように感じられます。

元旦から大みそかに至るまで、私たちの多くは業績・快楽・社会的地位・お金といったものを追いかけることに夢中になっています。ペナン島の場合、チャークウェイティヤオ(注1)・ロティチャナイ(注2)・ラーメン・ナシレマ(注3)といった料理が最もおいしいお店の発掘もこれに含まれるでしょう。ある人にとっては、他の全てのクルマを抜き去りつつ「ペナン第二大橋」(注4)を疾走することのできるパワフルなクルマを手に入れようとお金を貯めることも含まれるかもしれません。

学校を卒業して社会人になると、私たちの多くはステータスのある仕事に就くことに躍起になります。キャリアを積み重ねれば積み重ねるほど、自分の昇給額だけでなく隣席の同僚の昇給額も気になるものです。暇があれば携帯のSNSアプリを開き、資産ポートフォリオ形成に関する記事を読み漁ったりするものです。

しかしその一方で、私たちがいつかは必ず死ななければならないという冷厳な事実を落ち着いて、かつ真剣に考えることはほとんどないのが現実ではないでしょうか。私たちは自らがいつ死ぬか、そのタイミングを知り得ないのです。死・死後の審判・永遠・天国と地獄といったことを考えること、会話の中で取り上げることを必死に避けようとするのです。

そのような人が魂の問題を考えるとすれば病気をしたとき、家族に不幸があったとき、または事故に遭ったときくらいでしょうか。不測の事態に遭遇した人はパニックに陥り、身近にある何らかの「神」や「仏」に一時的にすがることでその局面を乗り切ろうとします。そのような事態に遭遇することさえなければ、宗教は生活に無縁なものにすぎず、フランク・シナトラが歌うように「マイウェイ」を貫き通すのが普通でしょう。

そしてある日、ガンが命そのものを蝕んでいることを医者から告げられ、恐怖のどん底に突き落とされるのです。もはや逃げ場はなく「心の平安」を得るために頼ってきたものが実は虚構にすぎなかったことを思い知らされ、立ち上がれないほどの恐怖に囚われてしまうのです。私たちはそのような人生を生きたいのでしょうか?

にもかかわらず、ペナン、クアラルンプール、シンガポール、上海、東京、そしてアジア中で幾億もの人々が太陽のもとであらゆる事柄を追いかけつつ最も重要な「魂の救い」だけは避けて通ろうとする、そのような生き方をしているのです。

聖書には、そのような生き方の具体例が数多く収められています。いくつか見てみましょう。

イザヤ書の冒頭にはこのような言葉が記されています:

「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。

わたしは子らを育てて大きくした。

しかし、彼らはわたしに背いた。

牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。

しかし、イスラエルは知らずわたしの民は見分けない」(イザヤ書1章2~3節)

イスラエルの民を囚われていたエジプトから導き上った指導者モーセは、死を目前にしてイスラエルの民についてこのように語っています:

「彼らは思慮に欠けた国民

彼らには洞察する力がない。

もし、彼らに知恵があれば、悟ったであろうに。自分の行く末も分かったであろうに」(申命記32章28~29節)

また古代イスラエルのソロモン王は、イスラエルの民が神の家に近づくときの態度についてこのように記しています:

神殿に通う足を慎むがよい。

悪いことをしても自覚しないような愚か者は 供え物をするよりも、聞き従う方がよい」(コヘレトの言葉4章17節)

ここで、ルカによる福音書12章19節及び20節を開きましょう。魂の問題をないがしろにし、神の存在を無視して生きる者の末路がここに記されています:

「こう自分に行ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」

主にある兄弟姉妹の皆さん、親愛なる友人の皆さん、私たちがこの恐るべき事態に陥ることは決してないと本当に自信をもって断言できるでしょうか?

地球に生きる者の中で、永遠に生きられる人は一人たりとも存在しません。私たちはいつか一人残らず必ず死を迎え、神の法廷に立ち裁判を受けなければなりません。自分の魂のことに関心をもたない愚か者はこの究極の法廷において、生涯を通じて犯してきた罪を洗いざらい列挙した起訴状を検察官によって朗読され、弁護人なしのまま、救い主の存在しない地獄で永遠に苦しむ刑に処せられるのです。皆さんはそのような立場にいたいと思いますか?

第2問

次に、第2問について考えてみましょう。「私たちは自らの魂の問題について何らかの行動を起こしているだろうか?」という問いです。

私たちの多くは「宗教」「神」についてたまに思いを巡らせることはあっても、考えることより先に進むことはありません。

そういった事柄に一時的に関心を抱くことならあるかもしれません。心を揺り動かす説教を聴いた後、あるいは葬儀の帰り道、あるいは闘病生活の苦しさの中で、あるいは家族の中に不和がある状況で、あるいは模範的なクリスチャンの姿に接したとき、あるいは迫力に満ちた信仰書またはトラクトに接したとき、私たちはその瞬間においては信仰のことを考えたり、少しばかり感動の涙を流したり、または漠然とした話をしたりするかもしれません。

しかし、多くの人はそこでとどまってしまいます。頭で考え、口で語ることによって救われるかのように錯覚してしまうのです。私たちは神の栄光のためにあれこれと「意図」「計画」「決心」し「願う」ことがあります。私たちは何が正しいかを「知って」いるつもりになり、最終的に正しい人であると認められたいと「願う」ことはあっても、その認識に基づいて具体的な行動をとることはないのです。

私たちの生活は、信仰に導かれる前の罪の奴隷であった状態と実際には何ら変わる所がないのです。私たちは本当の意味で自らの十字架を背負ってキリストに従っているとは言えないのです。マタイによる福音書21章28節以下には「父親と二人の息子」のたとえ話がありますが、私たちの実際の生き方は『お父さん、承知しました』と口先で良い返事をしても結局ブドウ園に行って働かなかった次男坊とたいして変わりないのです。

私たちが聞き、また語る内容と実際の行いが一致しないことがあまりに多い現代において、信仰を持たない人が「クリスチャンは偽善者だ」と私たちを批判することは何ら不思議なことではありません。だからこそ、私たちは自らを吟味しなければならないのです-「自分の魂は大丈夫か?」と。

第3問

次に、第3問にまいりましょう。「私たちは『カタチだけの宗教』で自らを満足させようとしていないだろうか?」という問いです。

私たちの信仰生活を振り返るとき、その外観は立派でも内的・霊的な側面がないがしろになっていることが多いのではないでしょうか。そのような人は、教会の礼拝には休まず出席し、信仰の基準を学ぶことにも熱心です。聖餐式が執行されるときは決して休むことはありません。彼らは自らの教会・分派・教派の立場を守ることに躍起で、意見を異にする人といつでも激論を戦わせる準備ができています。

このような姿勢は決して全否定されるべきものではありません。御言葉の解き明かしを真面目に聴き続けることは、信仰生活にとって不可欠です。教会の歩みに積極的・能動的に参与していくことも、聖書の正しい教えや教理を守ることにおいて熱心であることも非常に大切なことです。

しかし、自らの在り方を落ち着いて振り返るとき、外面は立派に見えても「こころ」が伴っていないことが案外多いのではないでしょうか。

自らの関心が地上の事柄にばかりいっていないか。天の事柄をないがしろにしていないか。

外から見える行いにこだわるあまり、内面において信仰が空っぽになっている現実を誤魔化してはいないか。

これらのことを、私たちは自らに問いかける必要があります。心を込めてキリストに従うよりも、カタチや外見を取り繕うことの方がはるかに簡単であることは、皆さんもよくお分かりのことと思います。

このような「カタチだけの宗教」は私たちに何の益ももたらしてくれません。カタチばかり追いかけることで、私たちは簡単に自己満足に陥ってしまうのです。入り口を誤り、外見ばかり追いかけていると、内面における喜びと平安について何も知らずに終わってしまいます。何かおかしいとひそかに気付きながら、なぜおかしいのかを知ることなく悪戦苦闘のうちに人生を浪費してしまうのです。

人生をかけがえのないものと思うならば、信仰の外殻にあたる部分に満足してはなりません。マタイによる福音書15章7節から9節を開きましょう。イエス様ご自身がそのような人をどのようにご覧になっているかが記されています:

「偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことを見事に預言したものだ。

『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」

私たちの魂が天国に連れて行ってもらえるためには、教会に毎週通い聖餐に欠かさず与るだけでは不十分です。公同礼拝や祈祷会といった「恵みの手段」、また信条や信仰問答といった「信仰の基準」はそれ自体有益なものであり、神がこれらを抜きにご自分の教会のために何かをなさることは滅多にありません。しかし、私たちが外見にばかり気を取られる一方で私たちの「こころ」が全く別の方向を向いているならば、港へと導く灯台に正面衝突する船と何ら変わりありません。だからこそ、私たちは「自分の魂は大丈夫か?」と自らに問わなければならないのです。

皆さんの中にはこのような言葉を聞いて気を落とす方がおられるかもしれません。そう感じるならば、決してご自分一人だけではないことを忘れないで頂きたいのです。私自身、26年間の信仰生活を振り返るとこれらの指摘はことごとくあてはまりますし、これらの事柄を意識することなく長年過ごしてしまいました。私自身にとっても非常に痛い言葉ばかりです。

そのような私たちのために、イエス様は十字架で息を引き取る前にこのように叫ばれたのです:「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。かくも尊い犠牲によって、私たちの魂は地獄の苦しみから免れるのです。

 ここにおられる皆さんのうちにキリストを知らない方、キリストをご自分の唯一の救い主として告白していない方がおられるならば、魂の問題と真剣に向き合うことを一日たりとも先延ばしにしないで頂きたいのです。私たちは神の究極の法廷にいつ引き出されるかわからないのです。神の御言葉によって罪を指摘して頂き、悔い改め、キリストを救い主として受け入れ、神の子として生きようではありませんか。

「自分の魂は大丈夫か?」私たちは神様からの問いかけを心と魂に受け止め、自らも問い続けていきましょう。

天の父よ、自らを吟味することを怠けてしまう、死の現実と死後の裁きに対して曖昧な態度をとり続けてしまう私たちを赦し憐れんで下さい。私たちを目覚めさせ、魂のことに対する危機意識を私たちの心に注いで下さい。あなたの愛する御子が私たちの魂の救いのために支払って下さった究極の代償を、私たちが決して無にすることがありませんように。キリスト・イエスの聖名によって、アーメン。

(注)

  1. Char kway teow/主に華人がラード入りの平たい麵で作る焼きそばの一種で、ペナン名物とされる。ムスリムを対象としたハラール版もあり。
  2. Roti canai/インド系住民が作る薄く平たいパンの一種で、カレーに浸して食するのが一般的。非常に薄いナンをイメージするとよい。シンガポールではroti prata(ロティプラタ)という。
  3. Nasi lemak/ココナッツミルクで炊いた米飯にカタクチイワシ、きゅうり、ゆで卵、サンバル(赤唐辛子ベースの「マレーシア版菱尾味噌」)など様々なおかずを添えて食する。民族を問わず人気のあるマレーシアの代表的な料理。
  4. ペナン島とマレー半島を結ぶ延長24キロの高速道路橋で、2014年3月に開通。正式名称はJambatan Sultan Abdul Halim Muadzam Shah(スルタン・アブドゥル・ハリム・ムアザム・シャー大橋)で、当時のマレーシア国王に因んで命名された。

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