はじめに
いわゆる新型コロナウイルス(当名称には異議がありますが、ここでは割愛)が世界を恐怖に陥れてから2年以上が過ぎました
パンデミックによって人生の計画が狂ってしまった、何もかも訳が分からなくなってしまった、とお感じになっている方も多いでしょう
実は、聖書には似た状況に陥った人物が複数登場します
彼らのストーリーを、今次パンデミックを念頭にうまくまとめた記事を、ペナン島時代に通っていた教会の仲間が送ってくれました
私自身とても励まされたので、皆さんと是非とも共有したく、著作権者の許諾を得て翻訳しました
原文(英語)はThe Gospel Coalitionという世界的な福音主義宣教団体のオーストラリア支部ウェブサイトに、2021年11月22日付で掲載されています
原文はこのリンクをクリックして下さい→https://au.thegospelcoalition.org/article/living-by-plan-or-living-by-promise/
なお、以下の点にご留意下さい:
- 原文記事に対する著作権はThe Gospel Coalition, Inc.にあります
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本文
この2年間、私たちは「人生の計画の変わりやすさと脆さ」をこれまでになく思い知らされたのではないでしょうか。
留学、転職、引越、そして結婚といった人生の大きな出来事の計画が、顕微鏡を通してしか見ることのできないウイルスによって粉々に打ち砕かれています。
しかし、立ち止まって考えてみると、このパンデミックがたとえ起きなかったとしても人生は計画通りにいかないものであることに気付く方もおられるでしょう。
大学を卒業し、立派な仕事に就き、最も愛する人と結婚し、健康な子供を授かる。
私たちのうち大多数は「人生とはこういうものだ」というパターンに沿った人生を生きているのではないでしょうか。
しかし、私たちの中には大学入試に失敗したり、有意義な仕事に就けなかったり、生涯独身で終わったり、結婚しても子供に恵まれなかったり、思わぬハプニングに遭遇する人もいます。
人生の計画が台無しになったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか?
思うようにいかないとき、私たちは何に、誰に頼ればよいのでしょうか?
自分自身の人生計画に従って生きることができないなら、どのように人生を送ればよいのでしょうか?
旧約聖書・創世記に記されたアブラハムとサラの生涯をみると、ロバート・フロストの有名な詩にある「選び取る人の少ない道」をたどる、より良い生き方を見出すことができます。それは自分の計画通りに生きようとするのではなく、神の約束をどこまでも信じて歩む生き方です。
神の約束が光るのは、私たちの計画が台無しになるとき
私たちが思い描く「人並みの人生計画」は家族という概念と切っても切れない関係にあります。
25歳までに結婚し、30歳までに子供を授かる(【訳者注】日本の場合は「30歳までに結婚し、35歳までに子供を授かる」でしょうか)。その後の人生は小学校入学、卒業、そして子供たち自身の結婚と出産…と子供の成長を中心に回ってゆくことでしょう。私たちが最も大切にする人生の計画は、家族を中心に回ることが多いのです。
アブラハムの場合も、例外ではありませんでした。そもそも、神が人類に対して持っておられたご計画は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」というものでした(創世記1章28節)。創世記の冒頭から、子供を授かるということは神の祝福の決定的な証拠とされていました。「恵まれた人生」すなわち家庭人としての人生と考えられていたのです。
そのような社会にあって「不妊の女で、子供ができなかった」(創世記11章30節)サラの予期せざる悲劇が如何に大きかったか、皆さんにも容易に想像できることと思います。今日の社会で不妊に悩む女性と同様、サラにとっても子供を産めないという事実は人生の最も大切な計画を台無しにされることだったのです。彼女には期待通りの人生など望み得ないものだったのです。
しかし、私たちの計画が挫折に終わるとき、それは神様が約束を忠実に果たして下さる前兆であることが多いのです。夢破れたどん底の人生を歩むサラとアブラハムに対し、神は一人の子供を約束されるどころか一つの国家が彼らから生まれることを約束されるのです(創世記12章1~3節)。サラはやがて一人の男の子を授かるだけでなく、「天の星のように、海辺の砂のように」と形容されるほど数多い子孫の母となります(同22章17節)。
私たちの計画が失敗に終わるときこそ、神の約束が光るときです。自分自身が職に就けないでいる間に友達が就職に成功するとき、自分自身が未婚のままでいる間に友達が結婚するとき、自分自身が子供を授かれないでいる間に友達に子供が生まれるとき、神に呪われているような思いに囚われずにいるのは困難なことです。しかし、私たちの計画が失敗に終わるとき、それは私たちが神のより大きな約束を見つめられるように、神が私たちに与えられた形を変えた祝福であり、神の厳しさを伴った憐れみの現れであるかもしれないのです。
皮肉にも、私たちの人生が常に計画通りにいくとき、私たちは神が私たちに与えておられる約束に気付かずに終わるかもしれないのです。少なくとも、私たちが神の約束を必要としていることには気付かないでしょう。
アメリカのクリスチャン詩人であるアニー・ジョンソン・フリント(1866~1932)は産みの両親とも養父母とも死別し、教職についてまもなく難病に侵されるなど喪失に満ちた生涯を送りましたが、自らの人生を振り返ってこのように詠いました:「わが蓄えし宝の尽きるとき 父は恵みを注がれん」。神は私たちの計画が実らなかったとき、不思議な仕方でご自身の約束をより深く体験できるよう私たちを導かれることがあるのです。
【訳者注】
アニー・ジョンソン・フリント(Annie Johnson Flint)の生涯を紹介した記事(英語)はこちらをクリック:
https://castlefieldschurch.org.uk/he-giveth-more-grace-the-life-of-annie-johnson-flint/
He Giveth More Graceと題されたこの詩は英語圏で讃美歌として歌われています 所収讃美歌集などの情報は以下をご参照下さい
https://hymnary.org/text/he_giveth_more_grace_as_our_burdens
日本語ではインマヌエル讃美歌530番(たえがたきおもに)として所収されています
「man1974b」さんがギターで演奏した個人動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=GJJeS5a2KJ0(20220328閲覧)
信じ難くも信じるに値する、神の約束
もっとも、神の約束を信じて歩むことは必ずしも易しいことではありません。実際には、神の約束は私たちの目に映る現実とはかけ離れていることがほとんどと言っていいでしょう。
子を産んだことのない子宮から神が新たな命を、ましてひとつの国を生み出すなど、どうして信じられるでしょうか?サラ本人も、神が男の子を授けて下さると告げられても信じられず、ひそかに笑ったほどです(創世記18章12節)。
しかし、新約聖書・ヘブライ人への手紙11章11節を見ると、彼女は「約束をなさった方は真実な方であると信じていた」が故に子を授かる力を得た、と明記しています。信じることが困難な中にあっても、彼女は神を信頼したのです。
神の約束は信じ難いことが多いかもしれません。しかし、それは信じるに値するものです。
想像してみましょう。神はアブラハムに対し、自分が慣れ親しんだものを全て捨てよ、と求められたのです。「そんなのあり得ない!」と言いたくなるような約束の成就のために住まいも故郷も投げ出し、人生の計画の全てを十字架につけよ、と求められたのです(創世記12章1節)。
それはとてつもなく厳しい要求でしたが、アブラハムはまさに「行き先も知らずに出発」し、神からの要求に従ったのです(ヘブライ人への手紙11章8節)。彼は使徒パウロがそうであったように「目に見えるものによらず、信仰によって歩む」道を選んだのです(コリントの信徒への手紙二・5章7節)。
彼は自分自身の計画によってではなく、神の約束に信頼して生きることを選んだのです。
私たちの計画が失敗に終わるとき、私たちは実現できなかった過去の喪失を悔やむのみならず、まだ見えない将来に対して恐れを抱きます。
職に就けないとき、結婚が破談に終わったとき、子供を授かれないとき、私たちの心はこのような不安でいっぱいになります:「生きていくために必要なお金を稼げるのだろうか?独りぼっちになった私を愛してくれる人はいるだろうか?年老いて心身ともに衰えたとき、私の世話をしてくれる人はいるだろうか?」
このような恐れでいっぱいになる局面においてこそ、神の約束は信じ難く感じられてもその信じ難さの10倍の価値を帯びることになります。確かに、アブラハムは神の御声よりも自分の恐怖心に耳を傾けることで幾度も失敗しましたが、神はご自身の約束が何ものによっても妨げられないことをその都度証明されたのです(創世記12章10節~20節、同20章1節~18節)。
神の約束が私たちの目にいかに無理に、荒唐無稽に映っても、そして私たち自身がいかに不信仰であっても、神の約束は私たちの人生そのものを賭けるほどの価値があるのです。
将来の計画が実現せずに終わってしまうのではないか?と恐れを抱くときこそ、私たちは神の約束を一層強く信じなければなりません。
確かに、神は私たちにとって最も大切な人生の計画-キャリア、結婚、子育て-を十字架につけよ、と求められるかもしれません。しかし、私たちが恐怖に満たされるときこそ、神は私たちが信仰によって生きるよう召し出されるのです。
神の約束は私たちの計画にはるかに勝っている
興味深いことに、アブラハムは実際には神の約束の成就による恵みを享受することはありませんでした。
彼はその生涯の終わりまでに幾人かの子供に恵まれましたが、それは神が約束された「大いなる国民」には程遠いものでした。神が約束されたカナンの土地のうち、彼が所有できたのは亡くなった妻を葬るために購入したヘブロン近郊のごく小さな一区画にすぎませんでした(創世記23章19節~20節、同25章1節~6節)。表向きには、アブラハムとサラは私たちが最も恐れる「約束が果たされないままの死」を迎えたと言えるでしょう。
しかし実際には、彼らは私たち全ての信仰者が果たすべき死に方を成し遂げたのです。そうです、彼らは信仰を抱いて死んだのです。彼らは神のより大きな約束に対して、揺るがない確信を抱いて死んでいったのです。それはカナンの地が与えてくれるこの世の恵みではなく「更にまさった故郷、すなわち天の故郷」に対する確信でした(ヘブライ人への手紙11章16節)。
彼らは、神の約束が彼らの、そして私たちの計画にはるかに勝っているとの確信を抱いて死んでいったのです。
聖書のどこを開いても、神が私たちにキャリア、結婚、子育てというこの世における恵みを約束されている文言は記されていません。神は私たちの状況に変化をもたらして下さるかもしれませんが、そのことを約束されるわけではありません。
神が私たちに対して約束して下さることははるかに大きなものです。神が約束して下さるのは無条件の選び、神の子とされる恵み、御子の血による贖いと罪の赦し、そして聖霊の恵みといったキリストにおける霊的な恵みなのです(エフェソの信徒への手紙1章3節~14節)。私たちがこの世における計画の破綻を悲しむとき、神はこれをはるかに超える天の約束という賜物を受け取るよう私たちを招いておられるのです。
私たちの多くにとって、神の約束が私たちの最善の計画に勝っているなど想像すらできないかもしれません。神様が与えて下さるものが安定した職業、愛にあふれた結婚生活、そして子供の健やかな成長といったものを超えて私たちを満足させることなどあり得ない、と思うこともあるでしょう。私たちがこの世にあって抱く願い事や夢と一致しないからといって、神の約束の確かさを疑ってしまうことの何と多いことでしょう。
しかしアブラハムとサラの人生を通じて、神は御自身の約束が私たちが考える最良の人生にはるかに勝っていることを示しておられます。
人生が思い通りにいかないとき、あなたは自分の計画通りに生きることにこだわりますか?それとも、自分の計画ではなく神の約束を信じて生きることを選びますか?
- キャリアプランが思い通りに実現しないとき、必要なすべてのものを備えて下さるとの神の約束を信じて生きることを選びますか?(マタイによる福音書6章25節~34節)
- 結婚の夢が破れたとき、いかなるものも神の愛から私たちを引き離すことはできないとの神の約束を信じて生きることを選びますか?(ローマの信徒への手紙8章38節~39節)
- 子供を授かる計画が実らなかったとき、この世でそして後の世で兄弟姉妹、母、子供を百倍与えて下さるとの神の約束を信じて生きることを選びますか?(マルコによる福音書10章29節~31節)
- そして、人生をやり直すチャンスを逃したとき、あなたをキリストと共に復活させて下さるばかりかキリストと共に栄光に包んで下さるとの神の約束を信じて生きることを選びますか?(コロサイの信徒への手紙3章1節~4節)
パンデミックがあろうとなかろうと、私たちの多くにとって人生とは思うようにいかないものです。今ごろはバリバリと働き、結婚して人の親または祖父母になっているはずなのに計画が外れてしまった、少なくとも自分の計画通りにはいっていない、と感じる人も多いでしょう。
もしあなたがそのような思いを抱えて生きているなら、神の約束を信じて生きる道を選んでみませんか?旧約聖書・箴言19章21節が指し示す、よりすぐれた、そしてより知恵に満ちた道を歩んでみませんか?
「人の心には多くの計画がある しかし、ただ主のみ旨だけが堅く立つ」(口語訳)
著者プロフィール
アダム・チン Adam Ch’ng
オーストラリア・メルボルン郊外の福音主義教会Cross & Crown Church(オーストラリア福音主義独立教会連合(FIEC)加盟)牧師。オーストラリア及び東南アジアにおける、文化の違いを超えた福音伝道の使命に召され、The Gospel Coalitionオーストラリア支部及びアジア地区の各種委員会メンバーを務める。
モナシュ大学で法律学を、リドリー大学で神学を学ぶ。教職に召される前は法律家として勤務し、アボット政権において労働大臣補佐官を務めた経験を有する。